佐久間邦彦さんは、広島で若手の被爆者の1人です。被爆者手帳をテーブルに置き、広島に原爆が投下されたのは、彼が生後わずか9カ月だったことを語ってくれました。 佐久間さんには1945年8月6日と、その後の被害についての記憶はありません。母親から聞いた話によると、原爆が東方向3kmの地点で爆発した時、彼は己斐にある自宅の廊下で寝かされ、母親は家の中で洗濯していたそうです。最初、母親は、近隣で爆弾が爆発したことで閃光が発せられたと考え、急いで乳児の佐久間さんを背負って、家の裏山にあった避難所に逃げました。そこには、多くの重傷者がいました。その日から数か月の間に約14万人が広島に投下された原爆と、その影響により命を落としました。爆風により自宅は酷く損傷しましたが、命は無事だったので運が良かったと思いました。 彼の家は爆心地から比較的離れていたので、自分が放射能の影響を受けたとは思っていなかったと、彼は話していました。しかし、10歳の頃、肝臓と腎臓の機能障害を患っていたことを思い出し、幼少期では珍しい、このような病気は、被爆した事と関係があるのではないかと考え始めたのは、20歳になってからでした。彼と母親は、山にある避難所に逃げる途中、爆発によって生じたきのこ雲から降ってきた「黒い雨」に打たれていたのです。 被爆者が苦しんだのは、被爆による身体的な影響だけではありません。成長しても原爆の爪痕は、常にありました。そして青年になった佐久間さんは、広島から逃げ出したいと考えていました。その後、1964年のオリンピックに参加することを楽しみに、東京に移住しました。そこでは、少なくとも最初は、特別視されることのない暮らしを楽しみ、「広島」という重圧から開放されました。しかし、彼がお付き合いをしていた女性の家族に会いに行くつもりだった時、その女性の母親は、娘が広島出身の男性と付き合う事を考える事にさえ怒っていました。そのような偏見を受け、佐久間さんは、東京にいることをあきらめ、広島に戻って三菱重工に就職することにしたのです。 佐久間さんは、三菱を定年退職した後に、被爆者の擁護と反核キャンペーンに積極的に参加するようになりました。2006年には、広島県原爆被害者団体協議会(被団協)という、広島に2つある被団協のひとつでボランティア活動を始めました。彼が、被団協の被爆者相談センターでボランティアを始めた時、原爆関連の問題と生き延びた人達の経験については、ほとんど知らなかったので、数日しか続かないと思っていたと佐久間さんは話します。 当初は、無料で医療処置を受けられる被曝者手帳の交付の申請をしていない被爆者のサポートをしていました。当時、定年退職後に医療費が負担になっていた被爆者は、かなりの人数がいたそうです。被爆者の多くは、自分の被爆体験について語ることが苦痛で、長い間、その体験を心に閉じ込めていました。しかし、被爆者手帳を申請するには、自分の被爆体験を語る事が必要です。 「当時、私よりも年上だった被爆者の話を聞いて、今まで知らなかったことを沢山知りました。学校で「平和教育」に使われていた映像などを見てきましたが、実際に自分の目で惨状を見てきた人達から、何が起こったのかを聞くのは、まったく別の体験でした。」 「時が経つにつれ、それは彼らの体験というだけではなく、私も体験したことだと認識するようになりました。核兵器の脅威、そしてそれを二度と使ってはならないと、心から考えるようになりました。」 現在75歳の佐久間さんは、広島県被団協の前理事長、金子一士さんから、2015年に理事長のポジションを引き継ぎ、被爆者代表として定期的に海外にも赴き、核兵器廃絶のため、原爆の恐ろしい現実を共有してきました。しかし、佐久間さんは「あの日」の記憶を持たない被爆者として、長年、自信が持てなかったと話しています。 「私は、被爆者から聞いた話を人々に話していますが、伝え聞いた証言の価値について疑問を持つ人も、たくさんいました。それは理解できます。結局のところ、伝え聞いた証言は「そこで経験した」人の証言よりも、影響力が小さい事は分かります。1945年の出来事の記憶を持てないほど幼かった者として、私が強く感じた批判でした。」 海外からも励ましの声が寄せられました。2010年、ニューヨークで開催された2010NPT検討会議に初めて出席した時、佐久間さんは約300人の学生グループに話をしました。彼自身の体験は、わずかしか話すことはできず、他の被爆者から聞いた事しか伝えられないという断りをした上で、スピーチを始めました。 スピーチの後、彼自身の経験も、原爆の歴史の重要な一部だと出席者が認めてくれた事に、彼は驚きました。原爆投下直後の惨劇については被爆者の証言を聞くことがあったけれど、その後に何が起こっていたかは、ほとんど知らなかったという感想が述べられたのです。このような言葉により、佐久間さんは自分の経験の価値と、被爆者として証言することに自信を持つことができたのです。 佐久間さんは、海外の人々が、政治や社会の問題、核兵器だけでなく、気候変動や男女の平等についても広くオープンに話し合っている事に感心しました。ドイツのテレビ番組の取材を受けたとき、ドイツの誠心誠意の長期的なアプローチと、日本の生ぬるい対応との格差に衝撃を受けました。 彼は、広島は核兵器廃絶運動の先頭にもっと立つべきだとも考えています。 特に、広島市の松井一美市長には批判的です。 彼は、「2019年の被爆74周年記念式典での演説で、自身を含めた広島全体の名の下に強硬な呼びかけをするのではなく、被爆者の要請に応じて、政府に対し、核兵器禁止条約への署名・批准を求めたことには失望した。」と語っています。 では、将来はどうなるのでしょうか。 佐久間さんのような人でも、広島の被爆者の代表を引き受けることに対し苦労したとしたら、被爆者が減っていく中で、次の世代はどうやって被爆者の仕事を続けていくのでしょうか。 佐久間さんは、若い世代が、核兵器の脅威を、他の社会的問題に結び付けるなど、問題への、より幅広い、枠組みを超えたアプローチの仕方に希望を見出しています。彼は、特に海外で「広島」そのものが持つ重みを感じています。そして、若い活動家達が、被爆者の遺産を引き継いで、広島市との関係に影響力を与えてくれると信じています。 また、彼は、アート・プロジェクトなどを通じて、核問題についての意識を高めるため、堅苦しくないアプローチに価値があると考えています。彼の息子さんは、自らを「ピカの子」と呼び、(佐久間さんは、被爆二世に誇りを持って、そのように自分の事を呼ぶ人は少ないと、笑顔でコメントしています)独自の方法で活動しています。例えば、2002年から毎年、平和記念公園にある原爆犠牲者慰霊碑の特徴的な形を模したTシャツを制作しています。 息子さんは、佐久間さんに「ピース・ラップ」プロジェクトへの参加を進めました。参加者は「へいわをねがう」という7文字を使って、ラップ・スタイルで歌詞を書き、それを発表するのです。佐久間さんの息子さんは、彼が制作したTシャツを父親が着て、慰霊碑の前に立ってほしいと思っていたので、核兵器廃絶を求める韻を踏んだ歌詞を披露してくれた時には驚いたと話しています。 最終的に佐久間さんはこれらの活動が、最終的にはより大きな組織の下に集まって、政府レベルで永続的な成功につながるような試みをしてほしいと考えています。 前述のピース・ラップ・プロジェクトは、2011年の福島第一原発事故後の東北の状況を受けて、2013年にスタートしました。 広島と福島のつながりについて佐久間さんに聞きました。 佐久間さんは、被災した人や家族と共に過ごした経験から、原爆の「黒い雨」と同じように、爆発後に広範囲に広がった放射性物質噴煙や、福島難民が他の地域に移住した際に経験した差別など、自分の経験との類似性を感じたといいます。 三菱に勤務していた時には、福井県で事故が多発していた原発「もんじゅ」の部品製造に少し関わったことがあり、長い間、原発を支持していたと告白しています。 原爆投下から75年を迎え、広島は見事に復興を遂げましたが、核問題がこれまでと同様に重要であることを佐久間さんは明らかにしてくれました。私たちは佐久間さんが、何度も辛い体験を共有してきた被爆者の方々と、その遺産を守る方法を模索している被爆者の方々との間の、かけがえのない架け橋になってくれると考えています。私たちが耳を傾けようと思えば、学べることはたくさんあるのです。

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